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ラブライブ!スーパースター!!がもたらしたスクールアイドルの再定義

3日前だか4日前だかにラブライブ!スーパースター!!の公式サイトオープンが報じられましたが皆様お元気でしょうか。私は着々と日付の感覚を失っています。

今回は先日公になったラブライブ!スーパースター!!について。

我がオタクとしての定住地になりつつあるラブライブ!さんがまたなんかやるとのことであり今まで静観してきたのだが、情報やら周りの反応的なものやらを見ている度に私のお気持ちが高まっていたのでいろいろ確定したのを機に今回一気に放出してみようと思う。ついでに私のラブライブ!観みたいなものも引っ張られて出てきたので置いておきます。一回は形のある文章にしておきたかったからね。

 

新しいキャッチフレーズがやばい

このスーパースター!!、何がやべーってキャッチフレーズが「私を叶える物語」と設定されているのがやばい。この時点で既にかなりやばい。スーパースター!!がμ'sとAqoursの延長線上にあるとはっきりしたのでなおさらやばい。無論いい意味で、である。

今までは、ラブライブ!は「みんなで叶える物語」をキャッチフレーズとしていた。これはもはやラブライブ!の根幹を定義する言葉と言っても過言ではないだろう。この定義付けがされたのが、無印アニメ1期あたりだろうか。その「みんなで叶える物語」を最初に体現したのがμ'sであり、このフレーズを旗印としてラブライブ!は世に広まっていった。それはこれを読む方なら周知の事実だろうし、この定義付けが上手く嵌ってここまで発展したと言っても過言ではないだろう。

そして、後続のAqoursも、「みんなで叶える物語」の定義付けに従って進んでいった。その指し示す方向に若干の違いはあれど、「みんなで叶える物語」という根幹からはぶれていなかったはずだ。むしろそれが顕著過ぎたイメージもある。

このように、今までのラブライブ!にとって「みんなで叶える物語」という定義は、根幹を成す言葉であったはずだ。


その根幹となる定義を、今回のスーパースター!!は勢いよくひっくり返した。

スクールアイドルは、「私を叶える物語」である、と。

 

この突然の変更に、インターネットには様々なお気持ち文が流れた。まぁ仕方ない面もある。だって真逆に見えるし。なんでいきなり「私」になってんだよ、いきなり自己中心になってんじゃねーよ、「みんな」はどこ行ったんだよ。そんな感想が出てきても仕方ないとは思う。

しかし、私はこの「私を叶える物語」という定義は、決して「みんなで叶える物語」を否定するものではないと思う。むしろ、「みんなで叶える物語」を最大限受け止めているからこそ、「私を叶える物語」へ進んだのではないか。私はそう考えている。

何故か。

スクールアイドルは、「みんなで叶える物語」である以前に、部活動であるからだ。

 

スクールアイドル部という部活動

そう、ラブライブ!はスクールアイドルというある種の部活動をモチーフにしたストーリーだからだ。

……何を当たり前のことを言っているんだとお思いかもしれない。私もそう思う。だが、この前提を抜きにしてスーパースター!!がもたらしたスクールアイドルの再定義は語れない。

私はラブライブ!ラブライブ!である根底に、「部活動ものである」ということがあるのではないかと考えている。もちろん衣装に袖を通し舞台で歌って踊ってアイドルやってる推しは最高に可愛い。しかしぶっちゃけそれは他のアイドルものでも同様だ。

ラブライブが他のアイドル物と決定的に違う点は、アイドル活動が純粋な部活動として存在している、という点だと思う。部活動なので大人の都合とか収益化とか人気がないから続けられないとかそんな問題は放っておける。人気がなくても、知名度がなくても、やりたいと思えばスクールアイドルは出来る。無論、収益になっているかとかそんなもん関係ない。だって部活だし。そこにやりたいという意思と熱意があればスクールアイドルは成立するし、自分たちのなりたいアイドル像を突き詰められる。そこが魅力の源泉であると私は思う。

 

そしてもう一つ。スクールアイドル関係なしに、普遍的な認識として述べておくべきことがある。立ち上げたばかりの団体というものは、得てして脆い存在であるということだ。

これは割と普遍的な話なのだが、立ち上げた団体を盤石にして活動を安定させるというのは非常に大変である。部活動ではないが、1つのそこそこ重めなサークルの安定化に関わった身としてこの部分は痛いほどわかる。

これに加えて、部活動を含めた学生団体には時間制限が存在する。高校生なら卒業するまでの3年間がこのタイムリミットになる。こればっかりはどうしようもないので仕方ないが、卒業していくという性質上、同じメンバー構成で何年も活動し続けるということはなく、1人の人が何年もメンバーとして携わり続けることもない。

故に、学生団体は流動を続ける。そして、この性質が脆さに拍車をかけている。

1人が携わり続けることができないということは、立ち上げに携わった熱意ある人間が抜けた瞬間、団体ごと瓦解しかねない可能性を秘めているからだ。この性質故に団体の安定化はとんでもない労力を必要とする。とりあえず自分たちが出て行くまでには、メンバーに無理を強いること無く団体を回せる状態にしないといけないからだ。しかも自分たちの活動と並行させながら、だ。

スクスタのメインストーリーを読破されている方ならピンとくるかもしれない。おそらくスクールアイドルフェスティバルの元実行委員会がそのタイプだ。一人の執念とも言える熱意によって支えられていた実行委員会は、その屋台骨が抜けてしまった瞬間、運営していたスクールアイドルフェスティバルごと消えてしまった。傍目から見ると悲しい話だが、実際よくあることではあるのだ。その点スクスタのストーリーは非常にリアルな所を突いている。おかげで読んでると諸箇所でいろんな古傷が疼くのだがそれはそれとして。

 

前で述べた、スクールアイドルは熱意さえあればなれるしなんでもありだということと、立ち上げたばかりの学生団体はその流動性故に脆い存在であるということ。この2つを合わせて考えると、ある一つの仮説が立てられる。

ラブライブ!という存在は、実は本質的に非常に脆い存在であったかもしれない、ということだ。

無論今はそんなことないのだが、部活動+アイドルものというラブライブ!は、本質的な脆さを抱えている。上で述べた脆さに加えて、人気が物を言うアイドルの性質も加わって、屋台骨となるアイドルが卒業して(=抜けて)しまった瞬間、コンテンツごと崩壊する可能性も秘めていたのだ。もしかしたらそれこそμ'sが活動に一区切りつけた瞬間ラブライブ!のコンテンツごと吹き飛んでいた未来だってあるかもしれないのだ。

 

「みんなで叶える物語」の再定義

この仮説を踏まえて、改めてラブライブ!の歩みを振り返ってみよう。

最初にラブライブ!の物語を紡いだのはμ'sだ。彼女たちは、スクールアイドルとラブライブという新たな道を示し、切り開いた。要は立ち上げ役だ。
実際、劇中でも現実世界でも、μ'sが主役となっていた時間軸においては、μ'sどころかスクールアイドルそのものが、吹けば飛びそうな小さな灯であった。
その小さな灯を守るため、μ'sと初期のラブライブは、「みんな」を頼った。この物語を見る一人一人もまた主役なのだと煽り、スクールアイドルという存在を様々な人間に組み込ませようとした。結果的にこれは大成功を収め、μ'sはその後飛ぶ鳥を落とす勢いで発展していった。周りを巻き込むことができるスクールアイドルだからこそ出来た技であろう。

そして、これは後続のAqoursも同様だ。彼女たちは「みんなで叶える物語」の形は一つではない。望みさえすれば、掴もうと足掻けば、何個だって物語は叶う。そう示したのが彼女たちだ。そして、彼女たちもまた、「みんな」を頼った。それは(劇中・現実問わず)沼津・内浦に住む「みんな」であり、Aqoursを追いかける「みんな」であり、μ'sの後ろを追いかけるかつての「みんな」もそこに含まれていたかもしれない。そして、彼女たちもまた、広く知られる大きな存在となった。支える屋台骨は1つではない、ラブライブ!を構成する要素は一つではないことをも同時に証明したのだ。

ここまで紐解いてみると、1つの大きな流れが見えてくる。

ラブライブ!という作品は、その全体がひとつの部活動とも取れる動きをしているのだ

立ち上げ当初の脆さと強固にするための基盤作り、代の引継ぎと流動するメインメンバー。そして、その中で放たれるきらめき。まさに、部活動における動きの捉えられるのではないだろうか。

そして、そう捉えると、1つ致命的な点がある。

これらの作中で、彼女たちは自分の望む道を歩んでいたのは事実だろう。だが、そこにはいつも「みんな」への呼びかけがあった。この「みんな」を無くして、ラブライブ!の構成要素を語り尽くすのは難しいだろう。それだけ重要な存在であるとも言える。

敢えて裏を返そう。この「みんな」がいなければ、彼女たちの物語は叶うことも語られることもなくただ忘れ去られていく可能性だってあったのだ。それがあったのは、良くも悪くも「みんな」がいたからだ。

「みんなで叶える物語」は、文字通り「みんな」で叶える物語であり、みんなで叶えなければ叶わない物語だったのだ。

これは、部活動と見たら致命的な点であるとも言える。無論見ている我々にとってはこんなの願ってもない状況なのだが、これは部活動をモチーフとした物語だ。先に述べたように、部活動であるならば何もみんなのためでなくてもいい。自分のために活動したっていいはずだ。

しかし、今までの土台ではスクールアイドルは脆弱だった。

強豪校には高校球児が野球に全力で取り組める環境が存在しているように、自分のやりたいことを貫くにはそれに見合った土壌がなければならない。自分のため、自分のやりたいことを掲げているだけでは、進めるかどうかさえ怪しかった。だから「みんな」に頼り、一般化を行い、万人へ訴えかけるある種の大義を掲げて進めてきた。そうしてラブライブ!は大成功を収め、脆い地盤を固めてきた。「みんなで叶える物語」は、スクールアイドルが活動するための強固な地盤を築くことに貢献していたのだ。

しかし、今はもうスクールアイドルは脆い存在ではない。

実際、劇中世界でもスクールアイドルはすっかり普遍的な部活動として浸透しているらしいし、現実世界でもラブライブ!と言えば何か動きがある度にTwitter日本トレンド上位をかっさらっていくクソデカコンテンツとして広く浸透した。スクールアイドルという灯を守る人たちは今やとんでもない数になり、スクールアイドル自体もまた、風が吹いたごときで消える炎ではなくなった。それは、「みんなで叶えた物語」という言葉が力強く物語っているだろう。

「みんな」に頼らずとも、もうラブライブ!は、スクールアイドルというコミュニティは、自分の足で歩いて行けるようになった。それは間違いなく、「みんなで叶えた物語」であろう。

「みんなで叶える物語」は、もう既にその実を結んでいるのだ。

だからこそ、スーパースター!!は次のステップへと進むために、スクールアイドルの再定義を行った。

 

スクールアイドルは「私を叶える物語」である、と。

 

みんなで叶えた物語の先で、「私」を突き詰めるステージへ行く準備が整ったと、そう運営は判断したのだろう。

上で述べたが、脆い土台の上で自分のやりたいことだけを突き詰めるのは危険である。しかし、逆に言えば環境さえ整えば自分のやりたいことを貫いたっていいのだ。その環境を整えたのは、たぶん「みんなで叶える物語」なのだろう。

「私を叶える物語」は、「みんなで叶える物語」の延長線上にあるものであり、「みんなで叶えた物語」そのものなのだ。

だから、私はこのキャッチフレーズに抵抗感は抱かなかった。

むしろラブライブがこのキャッチフレーズを掲げたという事実に感極まっていた感もある。

「みんなで叶える物語」が叶ったからこそ、今ここに、「私を叶える物語」が存在できる。そう直感的に思ったからかもしれない。

 

変わりゆく中で変わらないもの

しかし、だからと言ってこれまでの流れが全く変わるわけでもない。

新たな舞台は新設校、公式サイトでもないない尽くしの新設校とある通り、本当になにも無いのだろう。ある意味ゼロからのスタートである。そういう点では今までの流れを違う形で踏襲してるとも言えるだろう。

あともうひとつ。

スーパースター!!は全員が1年生でスタートする(らしい)のだ。

全員が1年生からスタートするということは、1年経っても今まで発生していた"卒業"というイベントが発生しないということでもあり、もしかしたら数年にわたって描かれる可能性だって十分にあるということだ。ラブライブ!スーパースター!!セカンドシーズンもあるのは嬉しいかもしれない。なにより、3年間かけた彼女たちの成長をじっくり拝める可能性があるのだ。これは期待を寄せざるを得ない。

これに加えて、部活動では確実に欠かせない新歓イベントが存在する可能性もある。これは熱い。今まで1年で完結していたラブライブ!のアニメシリーズにおいて、これは大きな変化だし、何より後輩の新規加入という新しい可能性も存在する。そりゃあ今のメンバーは5人だがn年後に増えないとは誰も言ってないし、何よりクソガバ設定に定評のあるアニメシリーズならやりかねない。

 
…………という訳で、スーパースター!!は非常に楽しみです。推しはまだない。自分自身声(というか演技?)で落ちる部分が2,3割あるので声が出てくるまで静観しようと思っている。ちなみに現時点で気になるのはかのんと恋です。5億年ぶりに主人公に落ちるムーブかますかもしれない。


「みんなで叶える物語」は、次のステージへと向かうのだろう。

しかし、みんなで叶える物語が形を変えたからと言って、その意味が綺麗さっぱりなくなるわけではない。むしろこれからだ。「みんなで叶えた物語」は、ここで終わってはいけない。これからも語り続けなければならない。

物語は、どんなに尊く美しいものであっても、語られていなければ意味がない。忘れ去られてしまっては、彼女たちの物語が無に帰ってしまう。だから、形を変えてでも、これからもスクールアイドルの物語は語られ続けるのだろう。

私はそれを、傍から静かに見守ろうと思う。